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陸中のツァラトゥストラ、ついに上京する!!

私の政治的立場を表明します。 ①リベラリズム(リベラル) ②全体最適(ピーター・ドラッカー) ③イノベーション理論(ヨーゼフ・シュンペーター) ④社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン) 「誰一人として見捨てない!!」 ユニバーサル・ベーシック・インカム(④の手段として)の推進運動へのコミットメント。ポピュリズムの台頭は、「教育の敗北」です。私は「リベラル」な立場で、世界中のできるだけ多くの人に「質の高い教育」をばら撒くことを推進する立場です。世界の教育水準が上がれば、世界は必ず繁栄します。私はそう信じ

私がリベラルである理由

自慢じゃないが、私は世の中には全く名前の通っていない小市民である(笑)

しかし、小市民の分際で政治的立場を持っている。
それは大きく次の4つだ。

①リベラル(ジャン・ジャック・ルソー

全体最適ピーター・ドラッカー

イノベーション理論(ヨーゼフ・シュンペーター

④社会的包摂

では、今回は①リベラルである理由について述べたい。
私は小さい頃から自由が大好きだった。自由な発想で自由にモノを考えたり、自由に行動することが好きだった。今でもそうだが、他の人ももっと自由に生きればいいのにと思っている。なぜなら、他の何人にも私と同じだけの自由があるからだ。

自分がリベラルだと自覚したのはだいぶ後になってからだが、今考えてみれば私はだいぶ小さい頃からリベラルな思想を持っていた。

しかしリベラルの立場でいると、ある思想ととても相性が悪いことに気付く。その思想は紀元前の大昔から存在していて、今現在も日本社会に色濃く残っている思想だ。

それは「儒家思想(儒教)」である。
儒家思想は、「人間の上下関係で守るべきこと」を最重要のこととして考える思想だ。つまり、「年長者は経験豊富であり、若輩者は未熟な存在である。だから年長者が若輩者を教育・指導する。」というのが、儒家思想の本質だと思う。

私はとにかく、この「儒家思想」と相性が悪かった。
抑圧されたり、説教されたり、怒られたり、こちらも反抗して衝突したり、時には殴り合いの喧嘩になったこともあった。なぜ相性が悪かったのか?それを答えるのは簡単だ。それは儒家思想が私の自由を制限しようとしたからである。わたしは当時から筋金入りの「リベラル」だったのだ。

私の立場からは非常に相性の悪かった「儒家思想」だが、なぜ歴史上長い間残り続け今も色濃く現代の日本社会に残っているのだろうか?それは「儒家思想」が優れた何かを持っていたからだ。
なぜ「儒家思想」の優れていたのか?
それは「年長者が優れていることも多い」からだ。

少し前に、ある学校の先生とこのことについて話す機会があり、私はリベラルな立場からいろいろ議論を試みてみた。それは「三方良し」という近江商人の思想の解釈についての話だった。私の「三方良し」のイメージは、文字どおり「すべての人にメリットがある」とか「全員得する」とかそういうものだ。

しかし、先生の意見は違っていた。彼はこう言った。

「結局、年長者がトップに収まることが、三方良しなんじゃないか?」

つまり、「年功序列が三方良し」だと彼は言ったのだ。

おそらく、これは彼のこれまでの経験から導き出されたものだろう。比較的若い人間が抜擢されるがうまくいかなかった実例、その後年長者がそのポストに収まることで組織がうまく回り出す実例があったに違いない。

現状の日本は、だいたいこんな感じで機能しているのではないかなあ。仮に論理的でないことが行われていたとしても、年長者が組織のトップに君臨し「儒家思想」によってそれを封じ込める。表向きにはあたかも波風も立っておらず、論理的に物事が進んでいるように見せる。

しかし、それが日本社会にとって都合がいいことも多かった。いくら論理的であっても、若輩者が年長者の上に立っている場合は、その若輩者に年長者の「憎悪」が集中してしまう。経験あるベテランがやる気を失い「サボタージュ」してしまう。これでは組織が機能するはずがない。

結局「年功序列」が最適解、ということになるわけである。日本は現在に至るまで、この「儒家思想」が「意思決定」に大きな影響を与えてきたのは明白な事実だろう。

「今まで」はそれでよかった。いや、よかったかどうかではない。実際「それ」でやってきた。問題は「これから」も「それ」でいいのか?ということだ。未来においても、過去と同様に「儒家思想」が大きな影響を及ぼしていくのか?

わたしは、従来の「儒家思想」をこれから持ち続けていくことはできないし、そうすべきでないと思っている。理由はテクノロジーの進歩やイノベーションが急激に加速しているからだ。「年長者」が最新のテクノロジーやイノベーションに強くコミットメントを持っている例は極めて少ない。その分野に強いコミットメントを持っていない人間が、高い「リテラシー」をもつことはありえない。

その分野に全く精通していない人間が、「意思決定」に対して強い権限、影響力を持つとしたら・・・その将来はかなり悲観しなければならないだろう。悲劇的な末路をたどるかもしれない。

なぜなら、日本が最適な「意思決定」を怠り、最新テクノロジーやイノベーションを実装することができなかった場合でも、他の国々は実装する可能性は高いわけで、そこで生まれる差は絶望的なものになりかねないからだ。

私は自由な立場から、「全体最適」や「イノベーション」を強力に推進して「社会的包摂」を実現し、個々人が享受できる自由の総量を最大化することを目指している。リベラルな発想のもとに、それぞれの分野で能力の高い人間が「意思決定」の権限を持つべきたと考える。現状の「儒家思想」的な社会ではそのようになっていない場合、つまり能力のない人間が「意思決定」の権限を持つケースが極めて多く、大変もったいないことになっている。

非効率な愚行を繰り返している間に、世界での日本の位置づけは「借金まみれの鈍くさい超富裕層」になってしまった。世界最悪の借金持ちであり、財政破綻はすぐそこに迫っている。
日本のマクロ経済はかなりやばいことになっているのである。

日本の労働生産性G7中で最下位である。それでもなお、従来の慣習を続けていく理由も必要性も認めない。

既得権益の牙城は想像以上に強固だ。
あなたは「変革」という「憧れの矢」を放つのか?それとも、その場しのぎで苦しみから逃れるために、「つかの間」の「安楽」を求めるのか?
それは、貴方自身が決めねばならない。

自己体験から考える、無力からする意志の歯ぎしり「ルサンチマン」。

人は「夢」を持ったりする。
一年くらい前、部屋掃除をしていると、懐かしい物が出てきた。それは、私が小学一年生の時の文集だった。ミミズの這ったような字で書かれていたのは、「将来の夢」。おおきくなったら、何になるのかについての作文だ。

私の当時の夢は、「プロ野球選手」。当時はいまほどのサッカー人気はなく、シーズン中、テレビではナイター中継が毎晩のように見れた時代。外で活発に遊ぶのが好きだった私がプロ野球に夢中になったのは、ある意味必然だった。
多くの日本の子どもたちがそうであったように・・・。

今考えれば、子供たちはニーチェの言うところの「憧れの矢」を数多く放っているように思う。私も、あれになりたいとか、こうしたいとかという「憧れ」がいっぱいあり、そういった「憧れの矢」をたくさん放っていた。

ずっと後になってから、私の父親は当時私が野球にのめり込んでいくことをあまり喜んではいなかったようだ、ということを知った。親には守るべき家族があり、その生活を維持するために経済的な活動が要求される。それが、様々な事情を生む大きな要因となっている。多くの父親がそうであるように、私の父親も生活を維持するための仕事が最重要のものの一つであり、私が野球にのめり込み過ぎて勉学やいい仕事につく活動をおろそかにすることを恐れていたようである。

プロ野球選手になれ選手はほんのひと握り。自分の息子(つまり私)にはそうなれる類まれな才能もなければ、野球に対するリテラシー、環境もない。

また、子供がチームに入って何かスポーツをやりだすと、それを支える親は結構大変である。(例えば少年野球のチーム運営は、父兄の熱心なサポートが必要不可欠。父兄によって関わり方は様々。)我が家の場合、両親とも野球に詳しいわけではなかったが、大事な試合には観戦しに来てくれたし、熱心ではなかったが特に不満はなかった。

ただそうはいっても、実際には野球経験者を親に持つ子どもとそうでない子供では、上達のスピードがかなり違う。野球がすることが好きであり、野球経験者を親に持つ子供は、身近に「自分だけのコーチ」がいるわけだから、大概の場合上達が早い。そこに実力を差が生まれる。

私は野球が好きだったし、うまくなりたいとも思っていた。ただ、野球がうまくなるためには情報が必要で、その時の私にはその野球がうまくなるために必要な情報が圧倒的に不足していた。
そして「うまくなりたいけれど、なかなかうまくならない。」という「歯がゆい状況」に陥ってしまう。実際チーム内でも一番うまい奴と客観的に比べると、だいぶ見劣りしていたのは事実だった。

結論からすると、この時は「ルサンチマン」に本格的に支配されたわけではない。しかし明確に言えるのは、この時はっきりと「無力による意思の歯ぎしり」を感じていたということ。少年野球チームの監督・コーチ陣は熱心な人が多かったが、指導者たちは基本的にチーム全体のことを考えなければならない立場。わたし個人に今必要な技術指導が十分にできるわけではなかった。

それでも子供の成長は早く技術的には少しずつ上達していたから、「自己肯定感」を失うことはなかった。全てうまくいっていたわけではなかったが、中学を卒業するまでは概ね「健全」で「アポロン的」だったといっていい。

本格的に「ルサンチマン」に支配されたのは、高校に入った時だった。わたしが入ったのは、地元の普通高校。中学校の近所であり、自転車で通える高校だった。

実は中学まで勉強するという習慣がなかった私は、合格の直後に渡された「春休みの宿題」の多さに衝撃を受けていた。高校に入った順番的には中の下くらいだったが、それですっかり高校の勉強についていけるかあやしいな、と考え始めていた。

そんな状況であるにもかかわらず、身の程知らずにも大学進学を考えていた当時の私にとって、勉強は大の苦手ではあるが「やらなければならないもの」だった。だが、中学卒業まで自分なりに一番真剣に取り組んできて、ある意味自分を一番表現できるものであった野球が、今度は苦しめることになる。入学当時、同じ中学から私を含め4人のチームメートが入部を志願していたが、学業の成績は他のメンバーと比べ明らかに劣っていた。

更に決定的だったのは、尊敬する先輩のある「決断」だった。
小、中学の2つ上で勉強ができ野球もうまかったその先輩は、中学の野球部ではキャプテンでリーダーシップがあり、高校では2年時ですでにショートのレギュラー。高校の最終学年では、当然野球部主力として活躍が期待されていた。

ところが、先輩は野球部を退部した。理由は勉学に専念するため。
この先輩の決断は、私に大きな影響を与えた。
「あの頭の良い先輩ですら、勉学と硬式野球との両立はできなかったのか・・・」
「両立ができなかった」というのは語弊があるかもしれない。先輩は2年ですでにレギュラーの座を掴んでいたわけだし。
実際のところ事の詳細はよくわからなかったが、先輩が難関大を志望しているのは想像できた。

あの頭が良くて野球のうまい先輩が、「文武両道」に苦しんでいる様をまざまざと見せつけられた私は、自分が高校に入ってからやろうとしていた「文武両道」を実現する自信を喪失し、次第に「自己肯定感」を失っていった。

ルサンチマン」とは、冒頭にもあるが「無力からする意志の歯ぎしり」。
フランス語でressentimentと書く。sentimentに繰り返しの「re」が付いている。
感情が振り払えず反復するというつくりの言葉だ。
実際には「うらみ・つらみ・そねみ」をあらわす。
ニーチェはこの言葉を好んで使っていたので、思想の用語として広く知られるようになる。

高校入学時の私の場合、勉学(難関大に合格する)と硬式野球部における部活(目標は甲子園出場)という自分には高すぎる理想を掲げていたところに、現実の厳しさを突きつけられ、文武両道(両立)に対する自信を喪失してしまった。そのことによって「自己肯定感」も次第に失われていき、不幸にも、無力からする意志の歯ぎしり「ルサンチマン」に支配されてしまったのだ。

また「文武両道」を断念して勉学に専念するというのは、私にとっては「憧れを持たず、安楽のみを求める」行為だったかもしれない。「勉学に専念する」ことに「自己肯定感」を持てるのなら、なんの問題もなかった。
しかし、断念したあとも野球に対する未練(感情)は振り払うことができなかった。野球に対する未練、成果のあらわれない勉強。理想と現実のギャップで、「ルサンチマン」の闇はますます深くなっていった。

今の私であったなら、おそらく実現する確率がわずかでも「文武両道」という「憧れの矢」を放ったであろう。
なぜなら、今の私は当時とは比較にならないくらい「自己肯定感」に溢れているからである。

私は結局「ルサンチマン」に支配されたまま大学受験を失敗し、志望する大学に入ることはできなかった。しかしそれからずっと後になってから、ニーチェの思想に触れることで当時の自分の状況を自分なりに分析できた。何より大きかったのは、「ルサンチマン」を克服するためには、「自己肯定感」を意識することがとても重要だということに気づけたことだ。

ルサンチマン」に支配されていた私にとって、ニーチェの「超人思想」はすごく力強い思想だった。「健全な」自分を取り戻した今の私は、西研さん(哲学者・日本医科大学教授)が提唱する「しなやかな超人」を自分なりに目指してみたいと思っている。

また「ルサンチマン」の深い闇に苦しんでいる時、同郷(岩手県)出身で精神科医斎藤環さんの「完全なる引きこもりは超人」という思想に、どれだけ勇気づけられただろう。「自己肯定感」を取り戻し、「アポロン的」な自分を取り戻せたのは、斎藤環さんのおかげである。

私が、どうやって「ルサンチマン」を克服したのかについての詳細は、後日に譲りたいと思う。

日本の重たい社会基盤を形成する、労働原理主義・狂信者のマインドセットは変えることができるか?

① 「四の五の言わずにとにかく働け!」という労働原理主義は正しいのか?


特に病気や障害を持っているわけではないのに、働かない人間に対する

世間の風当たりは厳しい。普段は「社会的包摂」ということをしきりに訴えてる人達も、

その場ではっきり言わないにしても、結局「働け!」とか「甘やかすな!」と手厳しい。

そんな人間は当然、世間からは承認が得られず、疎外されていく。



特に日本人にとって労働することは、

例え対費用効果的に破綻していてもとても美しいことだ。

「あの人はよく働く気持ちのいい人だ。」と好感をもたれ、世間から承認される。



「そんなのあたりまえだろ!」と思う人は大勢いると思うが、ちょっと待ってほしい。



「ほかの価値観を絶対に認めない」、という考え方。

これ、何かに似てるよなあ・・・



そう、イスラム国だ。



”唯一絶対の神”「アラー」を崇める「一神教」。狂信的なイスラム原理主義だ。

排他的で、ほかの価値観を一切認めない過激な集団だ。



原理主義という言葉は、

頑迷で他者の価値観を認めないなどといった否定的な含意を伴って使用される。



「働く人がいなくなったら、世の中どうなるんだ?」

などという心配や危惧を抱く人は多いだろう。



しかし、そこに実は落とし穴があるのだ。

働くことに極端に価値をおいてしまうために、

社会基盤の効率、生産性に関しての興味、関心、リテラシーが乏しくなってしまっているのである。



世の中の効率性、生産性。

これらの向上は、おそらくほとんどの人が望んでいることであるはず。

ところが「労働原理主義者」の中には、働くことに没頭するあまり、

肝心な効率性、生産性に対して盲目的になっている人がいたりするのだ。



② 社会の効率を考え生産性を上げることが、最適解であるはずだが・・・



「労働」が美徳である日本において、

どのような効果をもたらすのか、とか、掛かるコストに比べてどうなのか、ということは

「とにかく働くこと」が重要な多くの人々において、あまり重要なことではないようである。



中には、生産性に貢献するどころか、単に高いコストだけ掛かる存在にしかなっていない

という、ひどい状況が見受けられるのだ。



ここで確認しておくが、高い効果をもたらした人間が、それに見合った報酬を得るのは当然である。

インターネットやスマートフォンのような画期的なイノベーションを起こし、

世の中全体を豊かにしてくれるかもしれない。



しかしよく注意して見てみると、高い報酬を受け取っている人間が

必ずしもそれに見合った高い効果を与えているわけではないことには難なく気が付くのだ。



効果の低い人間が高い報酬を得るためには、

ほかの誰かから搾取しなければならない。



搾取されるのは「労働」であることが多いため、

この帳尻を合わせるため、搾取される哀れな労働者は

長時間労働を強いられたり、

受け取る賃金には到底見合わないような深刻なリスクを背負わされたりする。



③ 労働原理主義の呪縛。”重たい”マインドセットから逃れられない人々。



不当な扱いを受けているなら、さっさとその職場をやめてしまえばいいのだが、

ここであの狂信的思想が登場するのである。



「ここまで頑張ってきて、それなりの評価を得たのにもったいない」

「やめてしまったら、こんないい条件で働けるところなんかないよ」




とても、人間のそれとは思えないような、

例えば、月何百時間もの残業とか、

様々なバージョンの深刻なリスクとか、

そのようなものを無理やり、有無を言わさずに強制されてしまうというのが

労働原理主義の狂信者が陥っている現実なのだ。



むろん、これらの「つらさ」を進んで引き受け、過酷な労働をすることで

自己実現しようと考えている人はそうすればいいのだが、

それを他人に強制するのは過激な(ラジカルな)思想というよりほかはない。

つまりそれこそが労働原理主義なのだ。



④ 世の中にあふれる「偽善」に苦しむ人々。




残業やリスクといった「つらさ」は世の中の「偽善」が

形となって現れた1つの例といえるかもしれないし、

様々なバージョンの「偽善」にあふれる現代社会の中で、

その「偽善」をどのようにとらえるかは、

個々人の「マインドセット」(考え方の基本的な枠組みのこと)に大きな影響を与えそうだ。




”唯一絶対の神”「労働神」をあがめる「労働教」の労働原理主義の狂信者は、

こうした「偽善」に対して寛容であるがゆえに、

リテラシーを身に着けようという意欲に乏しく、結果として社会効率に対して盲目的だ。




「とにかく働かなければならない」と考える労働原理主義の狂信者は、

勝手に「偽善に強くならねばならない!」という強迫観念にも似た思想を抱くようである。



確かに実存の問題として、

世の中には「偽善」によって生まれた「不公平」が多数存在している。



だが、我々は中国などとは違い、

すべてのことを国民が決めることができる「民主主義国家」にいるのである。

不当な「偽善」に対しては、合意を形成して

政治に対してコミットメント(責任をもって関わる)を持つことで

選挙での投票などで、改善を促す様に影響を与えることができるのだ。



ところが、そのような力を持っているにもかかわらず、

政治リテラシーを身に着ける重要性を理解しないために

労働原理主義の狂信者は「偽善」に耐えるほかないと考えてしまうのだ。



⑤ テクノロジーの進歩がマインドセットを変える



このような人々は、インターネットやスマートフォンに触れたりして、

イノベーションによって得られた利便性によって、

より生活が豊かになったと感じているはずなのだが

一方で、テクノロジーに対する興味、関心、基本的なリテラシーがあまり高くはない。



実際、テクノロジーを実装することで、

現在の大きな経済的負担をもたらす、「重たい社会基盤」が

かなり効率的に改善するだろう、と指摘するイノベーターは多い。



今や、IT先進国として世界中から注目されているエストニア共和国

すでにかなりのレベルでの「電子化」を成し遂げている。



もちろん、サイバー攻撃のリスクは高まるのだが、

サイバーセキュリティ産業には、

ソフトバンクをはじめ多くの企業がすでに参入を表明しており、

今後、リソースを集中することによって、飛躍的なテクノロジーの進歩が期待される。



あとは、合意を形成して、英断を下すだけなのだが・・・



⑥国民がすべてを決める民主主義は国民が賢くなければならない



社会保障、国家財政、テクノロジー・・・。

これらが密接に関係していることは、もはや明らかである。

英断を下せば、テクノロジーを実装することで

社会保障にかかる莫大なコストを軽減することは可能だし、

そうすれば国家財政も、重たい社会基盤が改善されることで

より健全な方向に進んでいくだろう。



ただ、高齢者の中にはテクノロジーに対して強い拒否反応を示す人たちも少なくない。

こうした多くの人達は、テクノロジーに対するリテラシーにアクセスできていないのだ。



国民一人一人が、今どのようなテクノロジーが存在していて、

どんなことができる(できそう)なのかを知ること、

つまり、すべての国民がテクノロジーに対するリテラシーを高めることが

とても重要になってくる。



「未来の国民から搾取」はするが、テクノロジーは実装したくない、

などという詭弁はもう通用しない。



民主主義国家を繁栄に導く唯一の方法は、

国民一人一人が賢くなり、

合意を形成してそれを政治に反映させることなのだということに

そろそろ気が付いてほしいと思う。

特権的に電波利権を使い、莫大な利益を上げる東京民法テレビ各局を許すな!!「正しい情報を伝える」使命を忘れた大手メディアの暴走!!

自分たちですべてを決める民主主義では、国民が賢くある必要があり

そのためには国民に「正しく情報を知らせる」メディアの役割がとても重要だ。




では、日本の大手メディアには

この「正しく情報を知らせる」機能が備わっているのだろうか?




「電波利権」が存在していることは、世間で良く知られているとは言えない。

電波はそもそも公共の所有物、いわばその国の国民の資産だ。




そして電波は限りのある有限の資源だ。

地上波テレビ局はその有限の資源である電波の

700MHz~900MHzの一番質の高い電波帯

「黄金周波数帯」を使用している。



地上デジタル化されると技術的に圧縮が可能となり

その帯域に余裕が生まれて多くのチャンネルを配信することができるようになった。



実際、中国では70ch、アメリカでは数百chもの地上波テレビチャンネルが

この「黄金周波数帯」を使用している。



しかしながら日本はどうかというと、

アナログ時代から帯域に空きができたにもかかわらず、チャンネル数は12。

地デジになったというのに、チャンネル数は増えなかった。



これは、地上波テレビ局が免許事業であり、

所轄官庁である総務省から免許を得ることが至難であるため

新規参入がおよそできない状態だからだ。



こうした総務省の放送行政もあり、東京キー局による寡占状態を築き上げ

東京民法キー局は莫大な広告収入によって、

1兆円に及ぶような売り上げを誇り、

とんでもない利益を上げ続けてきている。



莫大な広告収入を得ることのできるわけだから

それに見合った使用料を支払うのが当然のように思われる。



しかし、1993年に電波利用料制度が導入されるまで、

各テレビ局は 1円も支払っておらず、

1993年以降には、ようやく各テレビ局が電波利用料を支払う制度が登場するものの、

各テレビ局が支払っている電波利用料は、年間でわずか4億円程度でしかない。




日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日テレビ東京

これら東京キー局の1兆円に及ぶような売上高を誇る企業が、

その収益の源である電波に対し、小銭しか払っていないのが現状なのだ。



このように、一部のテレビ局のみを「特権的に」優遇している状態は

社会にとって深刻な問題である。



本来であれば「電波利権」は規制緩和によって多くの新規参入を促し、

マスコミ各社の自由競争によって、多元的な報道を目指し

「正しい情報を伝える」健全な環境を整えるために、広く開放すべきなのだ。




しかし、大手メディアは自らの利益に反する「電波利権」に関する問題については、

系列のテレビや新聞などでは一切報じない。

問題を指摘する記者、マスコミ関係者は、

この「特権階級」によって活躍の場を奪われたりしている。



冒頭で、「正しく情報を伝える」のがメディアの重要な役割だと指摘した。

しかるに、私利私欲に走る東京民放テレビ各局、その系列の大手メディアは

「報じない自由」という「偏重報道」を繰り返し、事実を歪めている。



国を経済的に発展させるためには、国民の経済リテラシーを高める必要がある。

だとすれば、経済についての「正しい情報」を知らなければならない。



であるのに、「報じない自由」という「偏重報道」が横行している状態で

「正しい情報」に行きつくことができるだろうか。



大手マスコミのような経済的な強者が、

一般の国民の経済リテラシーを低いままにしておくのは、

その方が搾取するのには都合がいいからだ。



「正しく情報を知らせる」機能が

民主主義国家の発展にとって必要不可欠なものだとするなら、

現在の日本は、大変危機的な状況にあると言わざるを得ない。

何がイノベーションを妨げているのか?イノベーションに適した環境を創造する!!

「テクノロジーの進歩、イノベーションが弱者を救済する。」

このブログの主張である。

イノベーションのもたらす恩恵によって、所得が低くても生活の満足度が上がり

その結果として暮らしが豊かになると考えるからだ。


 
イノベーションが起こりやすい環境を整えることこそ、

まず最優先で取り組むべきことの一つだ。


 
効果の見込めない事業をやめて、

より生産性の高い事業、産業に資本や労力を投入するとか、

市場の原理を可能な限り取り入れ、自由競争を促進するとか・・・



そう、競争が新たな価値を生み出すのだ。



「ノーワーキング・リッチ」「ソリティア社員」は

対費用効果の低い存在の代名詞である。

「あいつさー、給料分の仕事してんのかよ。」とか

「何もしねえで、高い給料貰いやがって!」とか

「アイツの給料で、新人社員5,6人雇えるのに・・・」なんて陰口を叩かれる。






イノベーション、生産性の向上、経済成長の大きな障害となっている。

こんな話はそこら辺にあるそうだ。



同じことは組織や社会の構造にも言える。

もちろん、新人社員5,6人分の給料とかそんなレベルの話ではない。




「あの町まで行くのに、30分早くなったけど、

いったいこの新しい道路にはいくらかかったの?」

という素朴な疑問はわいてくる。



しかし、この社会構造に適応した人たちは言う。

「仕事があるということが重要だ。」

「なんだかんだ言って、結局道路使うんでしょ?」

なんて返ってくる。




時には何百億、何千億というお金が、なんか不思議な力が働いて

多額の費用に見合った効果がとても期待できない事業

つぎ込まれてしまっているというのに。



やめませんか。「じり貧」ですよ。間違いなく。


道路の維持すら自前で出来ずに、補助金に頼るしかないという話もある。


いや、「じり貧」どころか「どか貧」だという人もいるくらいだ。

破滅の時が「ドカ!」と突然やってくる。



働けば働くほど、豊かになるという事業なら話は分かる。

だが、この構造を存続させるということは

経済成長を妨げる行為であるに留まらず、破滅に向かわせる自殺行為だ。



いったい誰に、一般社会をそこまで貶める権利があるというのか。



既得権益」がイノベーションや経済成長の大きな妨げになっている例は

残念ながら多数存在している。




イノベーションを阻害している今の法律や制度を変え、

既存ビジネスが起こって来るインセンティブとなる門戸開放をする

そのことが重要なのだ。



そろそろ、何が最適解なのか、真剣に考えませんか?